「いいね」が60msで太平洋を渡る仕組み
基礎から押さえる
スマートフォンの画面をタップしてから、相手のフィードに「いいね」が反映されるまで60ミリ秒。その間にデータは海底9,000kmを往復し、100台以上の中継器を通過し、水深6,000mの深海を駆け抜けている。毎日何十億回と繰り返される操作の裏側に、圧倒的な物理インフラが存在する。
## タップから5msで東京のインターネット交差点へ
指がスクリーンに触れた瞬間、スマートフォンは座標を「いいね」命令に変換し、約数百バイトのデータパケットを生成する。最寄りの基地局から光ファイバー回線を走り、東京のインターネットエクスチェンジ(JPIX・JPNAPなど)に届くまでわずか5ミリ秒。
インターネットエクスチェンジとは、複数の通信事業者とコンテンツプロバイダーのネットワークが物理的に交差する中継地点だ。ルーターがパケットの宛先IPアドレスを読み取り、最適な経路を選択する。宛先はInstagram(Meta)のサーバー、つまりアメリカ。「太平洋を渡れ」という経路指示を受けたデータは、千葉県南端の千倉へと向かう。ここまで10ミリ秒以内だ。
## 千倉陸揚げ局で光に変わる瞬間
千倉は、FASTER・UNITY・SJC2など複数の太平洋横断海底ケーブルが集中する、日本のインターネットの玄関口だ。海岸線のすぐそばに建つ陸揚げ局(ケーブルステーション)の建物は目立たないが、その内部には国際通信を支える精密機器が詰まっている。
ここでデータは電気信号からレーザー光の信号へと変換される。使われる技術が波長多重(WDM:Wavelength Division Multiplexing)だ。100以上の異なる波長の光を1本のファイバーに重ねて送ることで、1本あたりの伝送容量を飛躍的に高める。最新のケーブルでは、このWDMと高度な変調技術を組み合わせることで、1本のファイバーペアで毎秒数十テラビットの転送が可能だ。
あなたの「いいね」は、その100色の光のひとつに乗って、直径わずか9マイクロメートルのガラスの芯へと飛び込む。人間の髪の毛の約10分の1の細さだ。
## 水深6000mの闇を秒速20万kmで走る
ケーブルは日本近海では海底に1〜2m埋設されているが、外洋の深海部では海底面にそのまま敷かれている。水深6,000mを超える場所では水圧は地上の600倍以上。マリアナ海溝に近い領域では水深1万mを越える場所もあり、そうした環境でも数十年単位の耐久性を持つよう設計されている。
ケーブルの構造は、中心の光ファイバーを鋼線・ポリエチレン・銅管が多重に包む同心円状だ。浅海部では岩礁や漁船のいかりから守るために装甲が厚く、外径は最大で6cm以上になる。深海部では圧力に強く軽量な構造に変わり、外径は2cm程度まで細くなる。
光信号は秒速約20万km(光速の約3分の2)で進み続ける。太平洋を横断する距離は約9,000km。光の速度だけで計算すれば45ミリ秒弱で渡れる。実際には海底地形に沿ったルートの曲がりや陸揚げ局での処理遅延が加わり、50ミリ秒前後で着岸する。
## 100台以上の中継器を乗り継いでオレゴンへ
光信号は距離とともに減衰する。約60〜80km間隔に設置された「中継器」が、弱くなった光を光のまま増幅する。太平洋横断の経路では100台以上の中継器を通過する計算だ。
増幅に使われるのはエルビウム添加ファイバー増幅器(EDFA:Erbium-Doped Fiber Amplifier)という技術だ。エルビウムイオンを添加した特殊なファイバーに励起光を照射することで、信号光を同じ波長のまま増幅する。電気信号への変換が不要なため変換ロスがなく、複数の波長を同時に増幅できる。この中継器は陸上から銅線を通じて直流高電圧で給電されており、外部電源なしには動作しない。
深海の水温は2〜4℃前後と安定しており、中継器の熱管理には有利だ。しかし修理は困難を極める。故障した場合は専用の海底ケーブル敷設船が現地まで向かい、ケーブルを引き上げて修理する。作業には数日から数週間かかる場合もある。
オレゴン州の陸揚げ局に到達した信号は電気信号に戻り、アメリカの陸上ネットワークを経由してMeta(Instagram)のデータセンターへ。サーバーが「いいね」を記録し、応答を送り返す。同じルートを逆にたどった応答が日本に届いた時点で、ハートのアイコンが赤くなる。タップから赤く変わるまで、約60ミリ秒。
## 衛星通信との遅延差が10倍ある理由
もし海底ケーブルが存在しなければ、国際通信は衛星に頼るしかない。静止衛星は高度約36,000kmの軌道を周回しており、地上との往復だけで光速でも240ミリ秒かかる。処理遅延を含めると500〜600ミリ秒以上が標準的だ。
海底ケーブルの60msと衛星の600msは実に10倍の差がある。ビデオ会議でわずかなラグが気になる、オンラインゲームで操作が遅れる——そうした体験の差を生み出しているのがこの数字だ。金融取引では1ミリ秒の差が数億円の損益に直結することもあり、低遅延は死活問題だ。
SpaceXのStarlinkが低軌道衛星(高度550km前後)で遅延を20〜40msまで縮めてきたが、容量あたりのコストや安定性ではまだ海底ケーブルに及ばない。衛星はあくまで補完手段だ。
## 世界の通信の95%を支える海の底
世界の国際インターネットトラフィックの95%以上が海底ケーブルを経由しているとされる。衛星はバックアップや離島補完という位置づけで、主役は依然として海底の光ファイバーだ。
2024年以降、Google・Meta・AmazonといったハイパースケーラーがAI処理に対応した大容量ケーブルを次々と発注している。AIの学習データや推論トラフィックの急増が、新世代ケーブルの敷設を加速させている。1本あたり数百億円規模のプロジェクトが、今この瞬間も太平洋の底で進行中だ。
あなたが押す「いいね」は数百バイト。しかしその旅を支えるインフラには、数百億円のケーブルと100台以上の中継器が横たわっている。スマホ画面のごく軽いタップと、海底の圧倒的な物理スケールのギャップ——それがインターネットという構造物の正体だ。
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出典
- TeleGeography: 光ファイバーの伝送速度と遅延